2022.11.18
「亭号」それは落語家の名字のようなもの
「亭号」それは落語家の名字のようなもの
日曜日の夕方5時30分
日本テレビから聞こえてくるのは
「笑点」のテーマ曲。
司会者は春風亭昇太、
大喜利メンバーが
林家木久扇、三遊亭好楽、三遊亭小遊三、
*三遊亭円楽、林家たい平、桂宮治、
左布団運びは山田隆夫。
放送開始は1966年5月ですから、
なんと56年間続く超・長寿番組です。
日本全国のお茶の間に寄席の演芸を広めた功績には
計り知れないものがあるでしょう。
さて、上に挙げた落語家の芸名を見てみましょう。
一般的な姓名でいうところの名字にあたる部分、
「春風亭」「林家」「三遊亭」「桂」を
「亭号」といいます。
落語家は師匠に弟子入りするところから修業を始めますが、
そのときに師匠の「亭号」をもらって、
名の部分もつけてもらいます。
*9月30日に亡くなった落語家・
三遊亭円楽さん(享年72)の
四十九日法要と納骨が14日、
群馬・前橋市の釈迦尊寺で営まれたと
ニュースでも報告がありました。
毒舌で腹黒な円楽師匠が笑点からいなくなるのは、
とても悲しいですが、きっと天国から笑いの神として
見守ってくれているでしょう。
落語家修業「前座」から「二つ目」まで
最初は「前座」といって、
師匠の家に住み込んで身の回りの世話や掃除をしたり、
寄席や落語会に出演する師匠の鞄持ちをしたりします。
寄席では、
演者と演者の合間に出てきて、
座布団をひっくり返したり、
お茶を出したりし、
最後に「めくり」という演者の名前を書いた綴りをめくって
次の演者の名前を出してから楽屋に引っ込むまでが
前座の仕事です。
舞台の袖で、
噺に合わせて太鼓を叩いたり、
主任(とり)という最後の演者の噺が終わると
「追い出し」と呼ばれる太鼓を叩くのも前座です。
そういういわゆる「前座仕事」だけではなく、
寄席や落語会ではいちばん最初に舞台に上がり
「前座噺」と呼ばれる短い噺(はなし)を演じさせてもらえます。
前座の修業が終わると「二つ目」になります。
このときに師匠の亭号は
そのままで名前のほうを変えることが多いようです。
二つ目になると羽織を着ることが許され、
寄席でも二番め以降に舞台に上がれます。
人気の出る落語家は
この二つ目のときから頭角を現すことがほとんどです。
いよいよ真打(しんうち)に昇進
「真打」とは寄席で主任を取れる落語家という意味。
「二つ目」として修業を積み、
実力と人気がともに備わったと師匠方に認められて
やっと昇進します。
真打になれば、自ら弟子を取ることもできます。
落語家として一人前になるわけで、
真打への昇進披露は、
黒紋付に袴を着けお祝いの幕の前で
同じく黒紋付の師匠方の口上をいただきながら
各寄席を回る華やかなものです。
名前もやはり真打らしく改めます。
師匠の亭号と同じかつての名人上手の名前を
復活させて名乗る落語家や、
この機に師匠の名前をもらい
師匠のほうが別の名前を名乗るケースもあります。
また亭号ごと変える落語家もいて、
たとえば立川談志は柳家小さんの弟子で、
二つ目のときは柳家小ゑんといいましたが、
真打になるときに明治時代に人気のあった
落語家の「立川談志」を襲名しました。
亭号の用いられ方
落語家の亭号は名字のようなものですが、
落語家を呼ぶときには亭号と名をぜんぶいうか、
名のほうだけで呼びます。
つまり、古今亭志ん朝は「志ん朝師匠」と呼ばれ
「古今亭師匠」とは呼ばれません。
ただし、亭号で象徴される
芸や落語家のキャラクターについていうときには
亭号をいうことがあります。
「林家の芸を受け継いでいる」
「いかにも柳家らしい」というように。
落語通が好んで遣ういい回しですね。
亭号の歴史
亭号を初めて名乗った落語家は
江戸時代後期の烏亭焉馬(うていえんば)
だといわれています。
焉馬は大工の子として生まれ、
幕府の小普請方を務めましたが、
そのかたわら俳諧や狂歌をたしなみ、
自ら浄瑠璃も書きました。
のちに向島の料亭で「噺の会」を始め、
落語に関わるようになりました。
この会から新作落語を演じる落語家が次々と生まれ、
焉馬は「落語中興の祖」と呼ばれるようになったのです。
彼は烏亭焉馬以外にも、
歌舞伎役者市川團十郎の名前をもじった
談洲楼や立川などの亭号も名乗りました。
ほかにも古い歴史を持ち、
現在でも多くの落語家が名乗っている亭号に
「三笑亭」「三遊亭」「古今亭」「金原亭」
などがあります。
「桂」は上方の古い亭号ですが、
三代目桂文治が江戸に下り、
初代桂文楽を名乗ってから
江戸の落語界にも定着したといわれています。
明治の言文一致運動にも一役買った三遊亭圓朝の落語
「三遊亭」は由緒ある亭号の一つですが、
なかでも三遊亭圓朝は「大圓朝」とも呼ばれ、
文学の世界にも影響を与えました。
彼は落語のなかでも芝居に近い
「人情噺」を得意とした名人でした。
あまりの巧さに他の落語家から嫉妬され、
自分が演じようとする噺を先回りして演じられる
嫌がらせを受けたため、
自ら噺を作るようになりました。
鳴り物や大道具を入れるなどの工夫もし、
代表作「真景累ヶ淵」ほか多数の新作落語を完成させたのです。
当時、日本でも速記術が発明され、
その普及のために圓朝の落語を寄席で速記し
翌朝の新聞に掲載するというキャンペーンも行われました。
そのおかげで
圓朝の落語は速記本や筆記本の形で
後世に残ることとなったのです。
二葉亭四迷は『浮雲』を書くときに
圓朝の落語の筆記本を参考にしたとされています。
『浮雲』は言文一致の文体で書かれた初めての小説ですが、
そこには圓朝の落語という参考資料があったわけです。
落語家の名字のような亭号。
調べてみると奥が深いですね。
次の日曜日の夕方「笑点」にチャンネルを合わせたら、
大喜利メンバーの亭号を確かめてみてください。
彼らも師匠から亭号を受け継ぎ、
修業を重ね、真打になってこの名前を名乗っているのだな、
と別の角度から見ることができるかも知れません。