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2023.02.08
今年の大河ドラマ「どうする家康」にちなんで徳川15代将軍を駆け足でたどります  後編

今年の大河ドラマ「どうする家康」にちなんで徳川15代将軍を駆け足でたどります  後編

 

泣かないホトトギスを

泣くまで待った徳川家康に始まる徳川15代

 

300年に渡って日本を統治した超長期政権ともいえます。

 

前回のブログでは

初代家康から7代家継までの

治世と人となりを見てきました。

 

今回は8代将軍から最後の将軍までを

書いていきますので、

どうぞ続けてお付き合いください。

 

 

第8代将軍 徳川吉宗 (1716年から1745年)

 

「暴れん坊将軍」でお馴染みの

徳川吉宗(よしむね)は第8代将軍です。

 

家康に継ぐ知名度を誇っているのではないでしょうか。

 

将軍家の血統が絶えたときには、

尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家、の

徳川御三家から

次期将軍を選ぶことになっていました。

 

吉宗紀州藩主・徳川光貞(みつさだ)

の四男でしたが、

父と兄たちが相次いで急逝し、

紀州藩主となりました。

 

その政治手腕が幕府の老中らに評価され将軍に。

 

先代の側近を排除し、

質素倹約を旨とした政治改革に取り組みました。

 

それが「享保の改革」です。

 

幕府の逼迫した財政の立て直しには成功しましたが、

庶民にも大きな負担を強いることとなり、

一揆や打ちこわしが各地で起こるなど

不安定な世情が続きました。

 

またこちらもテレビドラマでお馴染み

「大岡越前」こと

大岡忠相(おおおかただすけ)

町奉行に抜擢したのも吉宗です。

 

ドラマでは二人が親友として描かれていました。

 

 

 

9代将軍 徳川家重(1745年から1760年)

 

吉宗の長男・家重(いえしげ)は生来病弱で、

言葉に問題も持っていました。

 

幼い頃から仕えていた

大岡忠光(おおおかただみつ)

彼をたすけて政務にあたります。

 

田沼意次(たぬまおきつぐ)

を重用したのも家重で、

人材を見抜く目を持つとともに、

臣に恵まれた将軍といえるでしょう。

 

ただ、言葉の問題ゆえか、

名君の息子というプレッシャーゆえか、

ひきこもり勝ち、

大奥で酒色に耽ることが多かったようです。

 

頼みにしていた大岡忠光が亡くなるとすぐに

息子・家治(いえはる)に将軍職を譲りました。

 

 

 

10代将軍 徳川家治(1760年から1786年)

 

家治は幼少期より才気煥発で

将来を嘱望されていましたが、

将軍になると将棋や鷹狩りなどの趣味に没頭、

父・家重を補佐した

田沼意次に幕政を一任しました。

 

田沼は、吉宗が行った

「重農主義政策」の行き詰まりを打開するため

「重商主義政策」に舵を切り、

現状を打開しようとしたのです。

 

田沼意次といえば

賄賂政治家と揶揄する向きもありますが、

足軽の身分から己の能力で立身した彼への

やっかみによる不当な評価があったのかも知れません。

 

家治が亡くなると田沼も失脚してしまいました。

 

いっぽう江戸文化は成熟期を迎えており、

蘭学者・杉田玄白(すぎたげんぱく)、

稀代の発明家・平賀源内(ひらがげんない)

活躍したのも、家治の時代でした。

 

 

11代将軍 徳川家斉(1787年から1837 年)

 

歴代の将軍のなかで最長の

在職期間50年を誇るのが

第11代将軍・徳川家斉(いえなり)です。

 

家治の嫡男・家基(いえもと)の急逝により、

次期将軍をして

徳川御三卿*の一つ、

一橋家から家斉に白羽の矢が立ちました。

*将軍家や御三家に後継者を提供する役割を持った大名家

 

家斉は将軍職に就くと、

まず田沼意次を罷免、

松平定信を登用しました。

 

松平定信は「寛政の改革」に着手します。

 

当初は政務に熱心な家斉でしたが、

次第に酒色に耽り、

幕政を顧みないようになります。

 

多くの側室を抱え、

もうけたこどもは55人に上りました。

 

役人には賄賂が横行し、

治安が乱れるなか

「天保の大飢饉」

と呼ばれる飢饉に襲われ、

幕府への不満は膨れ上がります。

 

「天保の騒動」

「大塩平八郎の乱」が勃発、

いっぽうで退廃的な町人文化である

「化政文化」が花開きました。

 

 

 

12代将軍 徳川家慶(1837年から1853年)

 

徳川家慶(いえよし)

父・家斉から将軍職を譲られたのは

45歳のときでしたが、

家斉はその後も「大御所」として

実権を手放しませんでした。

 

家斉の没後、

本格的に幕政に手腕を発揮して、

家斉の側近を排して

水野忠邦(みずのただくに)を登用、

改革にあたらせました(「天保の改革」)。

 

しかし、

2年がかりで行った改革が失敗したと見るや、

家慶は水野を罷免、

弱冠24歳だった

阿部正弘(あべまさひろ)を抜擢して

幕政改革にあたらせました。

 

1853年浦賀沖にペリー率いる黒船が来航、

幕閣が対策に追われるなか家斉は51歳で急逝しました。

 

 

13代将軍 徳川家定(1853年から1858年)

 

生まれつき病弱だった

徳川家定(いえさだ)は、

父の急逝をうけて将軍職に就いたのち、

さらに体調を悪化させ、

老中・阿部正弘に政務を一任していました。

 

お菓子作りが好きで

自らカステラや饅頭を作っていたといいますから

風変わりな将軍だったのかも知れません。

 

家斉が実子のないまま

病床に伏すと後継者をめぐって、

家定の従兄弟で

紀州藩主の徳川家茂(いえもち)

を推す派と、

一橋家を相続していた

徳川慶喜(よしのぶ)

を擁立する派の対立が起こります。

 

家定家茂を次期将軍に決めて

後継者争いを納めた後、

亡くなりました。

 

 

14代将軍 徳川家茂(1859年から1866年)

 

井伊直弼に推され、

家斉に指名されて将軍職に就いた徳川家茂

 

黒船来航後、

世論は開国

攘夷(外国人を追い払う)

かに二分されました。

 

弱体化した幕府は朝廷と連携して勢力を取り戻そうと

「公武合体」を推し進めます。

 

その一環として家茂のもとに

孝明(こうめい)天皇娘・和宮(かずのみや)が降嫁。

 

朝廷側は結婚の条件として

鎖国攘夷を要求していましたが、

家茂はこれに応える前に21歳で亡くなります。

 

幕府と朝廷の緊張関係のなかでも

家茂と和宮は

短くも仲睦まじい結婚生活を過ごしたそうです。

 

 

15代将軍 徳川慶喜(1867年から1868 年)

 

水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の七男・慶喜

一橋家の養子となりましたが、

後継者争いで家茂に敗れ、

安政の大獄で謹慎の身に。

 

「桜田門外の変」の後、

家茂の後見人となり、

家茂の死後、将軍に就任しました。

 

公武合体派孝明天皇が亡くなり、

倒幕派が台頭、薩摩藩長州藩

倒幕運動を起こします。

 

これを察知した慶喜

政権を天皇に返す

「大政奉還」に踏み切ります。

 

ここに江戸幕府は終焉を迎え、

翌年江戸城は明け渡しとなりました。

 

いかがでしたでしょうか。

徳川15代の将軍たち、

こうして通して見てみると、

徳川幕府というものに

少しだけ詳しくなった気がします。

 

ここから続く私達のヒストリー

 

わたしたちが戸籍で辿れる先祖はちょうど、

幕末のあたりまで。

 

ここから先は

わたしたちそれぞれのファミリーヒストリーが

始まるという見方をしても

面白いかも知れませんね。

 

戸籍には保存期限があって、

いま調査しなければ、

もう二度と先祖を調査することが

できなくなる可能性があります。

 

江戸時代末期からの家族のヒストリー、

この後続く、

あなたの家族の将軍はどなただったのでしょうか。

 

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