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2023.02.07
今年の大河ドラマ「どうする家康」にちなんで徳川15代将軍を駆け足でたどります  前編

今年の大河ドラマ「どうする家康」にちなんで徳川15代将軍を駆け足でたどります  前編

 

 

気鋭の脚本家と豪華キャストによる

2023年大河ドラマ「どうする家康」

順調に滑り出しているようですが、

本ブログとして気になるのは、

なんといっても家康以降の徳川家の家系です。

 

「徳川15代」というのは

日本史の授業の記憶にも残っているし、

各将軍の名前もなんとなくは知っていますよね。

 

でも実際に、

一人一人はどのような出自で

何歳から何歳まで将軍を務めたのか、

治世の面ではなにをした人なのか。

 

駆け足で見ていきましょう。

 

 

初代将軍 徳川家康 (在職1603年〜1605年)

 

今川家と織田家に人質として差し出されて

不遇な幼少期を過ごしましたが、

戦国時代を生き抜き、

織田信長、豊臣秀吉を見送り、

ついに関ヶ原の戦いで勝利して、

1603年に征夷大将軍となります。

 

そのときすでに62歳

 

人生50年といわれた時代に

還暦を超えて天下を取ったまさに忍耐の人であり、

健康オタクだったともいわれています。

 

1605(慶長10)年に将軍職を

息子徳川秀忠に譲った後も

「大御所(前将軍を表す尊称)」

として実権を握りつづけ、

磐石な幕府の体制を築きました。

 

亡くなったのは

1616(元和2)年75歳でしたから、

政治的にも本人も

長命な武将だったといえるでしょう。

 

 

第2代将軍 徳川秀忠  (1605年〜1623年)

 

天下分け目の関ヶ原の戦いに間に合わず、

父家康から叱責されたのんびり息子かと思いきや、

父家康の没後に将軍として実権を持つと

「武家諸法度」を公布し、

大名たちの力を厳しく管理。

 

父に続いて徳川幕府の礎を作りました。

 

 

第3代将軍 徳川家光 (1623 年〜1651年)

 

秀忠の次男で、

祖父や父と異なり、

初めて戦場経験を持たずに

将軍職に就任。

 

病弱の身ながら

乳母の春日局の

強力な後押しを受けての就任でした。

 

江戸城を完成させ、

参勤交代制を義務化するなどして、

幕府の制度を確立しました。

 

島原の乱を受けて、

キリスト教を禁圧し、

海外貿易の制限も行いました。

 

 

第4代将軍 徳川家綱 (1651年〜1680年)


家光の長男で、11歳で将軍となります。

彼も病弱で、

自ら政治を行うことは少なかったのですが、

父の異母弟で叔父にあたる

保科正之(ほしなまさゆき)をはじめとする

亡父の側近がよく仕え、

家綱自身も家臣の進言によく耳を傾けました。

 

家綱と保科正之が推進した

名高い政策が三つあります。

 

一つは「末期養子禁止の緩和」

 

大名に嫡子がないまま

重篤な状態になったときに、

家を断絶させないように

養子を取ることを許しました。

 

二つめは「殉死の禁止」を定めて

没した主君の後追いを禁じたこと。

 

三つめは、

大名やその重臣の妻子などを人質として

江戸に住まわせていた

「大名証人」の廃止です。

 

家綱の治世により、

それまでの「武断政治」から

「文治政治」が始まったとされています。

 

1680年に実子のないまま40 歳で病没し、

徳川の直系男子による征夷大将軍の世襲は

4代で終わりました。

 

 

第5代将軍 徳川綱吉(1680年〜1709年)

 

家光の四男で家綱の弟にあたる徳川綱吉は、

儒学などの学問を好む教養人でした。

 

家綱の文治政治を継承し、

儒学の高い倫理観に根ざした政策を

打ち出していきます。

 

その一つが「生類憐れみの令」で、

いきすぎとの不評を買いますが、

犬だけが保護対象であったのではなく、

捨て子を禁じたり、

傷病者を保護したりといった

福祉政策も含まれていました。

 

歌舞伎やドラマの

「忠臣蔵」で知られる

元禄赤穂事件が起こったのも

綱吉が将軍だったとき。

 

浮世絵の技法が完成されて人気を集めるなど、

華やかな元禄文化が花開いた時代でもありました。

 

 

 

第6代将軍 徳川家宣(1709年〜1712年)

 

 

家光の三男で甲府藩主綱重の長男。

 

家康を除けば最高齢の48歳で

征夷大将軍に就任しました。

 

儒学者の新井白石を側近として

登用するなど、

儒学を重要視など

先代の文治政治を踏襲します。

 

そのいっぽうで極端な動物愛護により

人々を苦しめていた生類憐れみの令を廃止、

金を破って捕らえられていた

8,000人以上を放免しました。

 

ほかにも、

人々の不満の種となっていた酒税を廃止、

使いづらくて不評だった

貨幣の宝永通宝の通用を停止するなど、

改革に取り組みましたが、

病を得て50歳で死去。

 

わずか3年の治世となりました。

 

 

第7代将軍 徳川家継(1713年から1716年)

家宣は病気となって後継者を選ぶ際に、

幼君の世が平穏であることは稀であるとして、

まだ幼い我が子家継ではなく、

他家から選ぶように提案しました。

 

しかし、

家臣たちから

家継を補佐するからと進言されてこれを承諾。

 

家宣の死後、

わずか5歳の家継が将軍職に就きます。

 

父は最年長、

息子は最年少の将軍となったわけです。

 

新井白石は家宣に約束した通り、

家継をたすけて小判の改鋳など善政に努めました。

 

2代の将軍に仕えた白石の行った政治は

「正徳の治」と呼ばれています。

 

しかし、

「絵島生島事件」という

大奥のスキャンダルが発生するなど

政局が混乱するなか、

利発だった家継は風邪をこじらせて

8歳で夭折してしまいます。

 

当然世継ぎはおらず、

徳川宗家の血統は

7代で断絶してしまうのでした。

 

そして登場するのが紀州藩主の四男坊だった

8代将軍徳川吉宗ですが、

彼から最後の将軍徳川慶喜までについてはまた次回。

 

どうぞお楽しみに。

 

 

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