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2023.10.15
日本で最初にニットを着用したのは水戸光圀公なるぞ・・・編み物の歴史

日本で最初にニットを着用したのは水戸光圀公なるぞ・・・編み物の歴史

 

秋口になるとニットが恋しくなってきます。

 

筆者は編み物が唯一の趣味で、

まだ暑いうちから編み物本の新刊を真剣に立ち読み、

ばかりではいけないので、

毎シーズン最低3冊は買っています。

 

なぜこんなに編み物が好きになったかというと

母親が仕事にしていて

物心がつく前から毛糸に触れていたから。

 

それほど自分に根づいていたために、

編み物の歴史を改めて考えることがありませんでした。

 

イギリスや北欧の伝統的な編み物については興味があり、

実践もしていましたが。

なので、今回は編み物好きの読者の方々に捧ぐ、

編み物の歴史です。

 

 

 

世界最古の編み物は

 

編み物も他の文化同様、

起源となると

はっきりこれといったものはないようです。

 

一説には、糸や藤、

ツルや竹などをねじり寄せて

手編みする方法は、

石器時代からあったといわれています。

 

生活の上での必要に迫られて、

まさに編み出した技術といえるでしょう。

 

 

魚獲りの網も同じく、

古代からありました。

 

日本でも縄文時代の早い時期には

魚網が編まれていたことがわかっているのだとか。

 

 

身につける編み物として最古のものは

3世紀頃のもので、

エジプトのシリアの遺跡から発見された

帽子や靴下だそうです。

 

いまでいうかぎ針編みで

(先にフックのついた一本の針で

糸のループを連続させて編む方法)

作られたと考えられています。

 

その後商人やムーア人が編み物をエジプトから持ち出し、

編み物技術や編み物用品を世界に広めたのだそうです。

 

 

 

ヨーロッパに伝わってからの編み物

 

北欧やイギリスで

二本の棒針が使われるようになり、

ドイツでは毛糸、麻糸、綿糸による

編み物が始まりました。

 

フランスやスペインでは

手編みの手袋や靴下が流行、

産業として発展しパリやフィレンツェには

職人によるギルド(組合)が作られました。

 

1589年、イギリスの牧師ウィリアム・リーが、

ひげ針による足踏み式靴下編機を発明、

これが最初の編物機械であり、

手編みの時代から機械による工業化の時代へと

一歩踏み出しました。

 

その後編物機械の改良が行われ、

イギリスを中心に発達、

産業革命を促す要因の一つとなったのです。

 

19世紀に入ると、

イギリスのマッシュー・タウンゼントが

ひげ針より高能率のベラ針と考案、

これによって編物工業は画期的発展を遂げました。

 

今日に至るまで、

ニット編機のほとんどがこのベラ針を用いています。

 

いっとき影を潜めていた手編みは、

クリミア戦争(1853〜1856年)の際、

軍需用の帽子、靴下、手袋が婦人たちによって編まれ、

一般家庭でもシャツ、ペチコート、ジャケットなどが

手編みで作られるようになりました。

 

第一次世界大戦によって、

編み物の需要は拡大、

編物雑誌なども発行され、

下着だけではなく上着まで作られました。

 

1930年代にはパリのファッション界にも編み物が登場、

目覚ましい発展を遂げました。

 

 

 

日本に編み物が入ってきたのは17世紀後半

 

日本では組紐を除き、

布地や衣類を編み物で作ることはありませんでした。

 

しかし、17世紀後半に

スペインやポルトガルから編み地が渡来、

ポルトガル語やスペイン語の

「靴下」を意味する言葉から

「メリヤス」と呼ばれ、

靴下を作る技法として普及しました。

 

資料が残っているのは江戸時代からで、

水戸光圀は編み物の靴下を愛用していて、

実物が残っているそうです。

 

絹糸で編まれたものと綿糸で編まれたものがあり、

模様編みの入った凝ったものだとか。

 

黄門様の旅の足元を支えていたのは

手編みの靴下、

当時の呼び方で「メリヤス足袋」だったのかも知れません。

 

 

その後黒船が来襲して国防の危機がやってきますが、

そのときに日本に入ってきたものの一つが

 

靴を履くには靴下が必要ということで、

靴下を編む技術が広まっていきます。

 

下級武士の内職として靴下の編み物は人気があり、

無精髭の武士が三本針を使って

靴下を編んでいる絵が残っているそうです。

 

靴下だけではなく、

手袋、襦袢、道具入れも編み物で作られはじめました。

 

さすが器用な日本人は技術の習得が早い、

といったところですが、

手のかかる編み物は高価なものだったようです。

 

 

 

明治以降の編み物の近代化

 

 

明治時代に入るとメリヤスは

「莫大小」「目利安」と書かれ、

じょじょに大衆化していきます。

 

海外の編機を模倣した編物機械が作られ、

明治8年には機械編みの靴下が

清(いまの中国)に輸出されるまでになり、

日清日露戦争の軍事品生産を中心として、

メリヤス産業が急速に発展していきました。

 

 

大正時代には、

靴下、手袋、肌着などから

高級品まで生産されるようになり、

世界各国に輸出を伸ばします。

 

第一次世界大戦後には

日本のメリヤス産業はヨーロッパの水準に

追いつくまで成長発達をしました。

 

女性の社会進出が進み

「モダンガール」と呼ばれた彼女たちは、

カーディガンやセーターなどの

ニット製品を愛用しました。

 

 

 

家庭用編機の普及 

 

第二次世界大戦後の1954年、

ブラザー工業は家庭用編機を発売、

既製品が高価だったこともあり、

広く普及しました。

 

筆者の母が編物学校に通って習得したのも

この家庭用編機を使ったニットでした。

 

1960年代、家庭用編機はミシンと並んで母親たちの相棒となり、

家族の衣類を生み出していたのです。

 

高度経済成長が進むにつれて、

既製品のニットの値段が下り、

家庭用編機や手編みの必要性が薄れていきます。

 

しかし、手編みは手芸として趣味の世界で

いまも愛好家を集めています。

 

今シーズンはなにを編もうか、

筆者もうれしく頭を悩ませているところです。

 

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