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2023.02.15
梅か桜か 日本人にとっての「花」とは

梅か桜か 日本人にとっての「花」とは

 

寒さの厳しいなかにも

明るい日差しにが近いことを感じる

季節になりました。

 

花の便りも待たれますね。

 

日本人にとって「花」といえば

「お花見」といえば桜を見にいくこと、

と現代のわたしたちは

ほぼ疑うことがありませんが、

じつはかつてはよりのほうが

人々に喜ばれていたという時代があったのです。

 

にとって代わって

日本の一番人気の花となったのは

いつ頃のことなのでしょうか。

 

 

飛鳥時代、遣隋使によって漢方薬として持ち込まれた梅

 

は日本の在来種ではなく、

中国から渡ってきた植物です。

 

そのルーツは飛鳥時代

遣隋使に遡ります。

 

中国では3000年以上前から

青梅を燻製にしたものを「烏梅(うばい)」

と呼んで薬として用いていました。

 

熱冷まし下痢止め

解毒などに効用があるとされていました。

 

奈良時代になると

梅の花を鑑賞することが

貴族の間に広まり、

造園には梅の木を入れることが

定番となったようです。

 

『万葉集』には

梅を読んだ和歌が

110首収められており、

対して桜を詠んだ歌は43首

 

梅の人気ぶりが伺えます。

 

貴族たちは

を見ながら和歌を詠む会を開き、

これが「花見」の原型になった

といわれています。

 

 

 

桜は「神様の座る場所」

 

とはいえ、

への人々の関心が薄かった

というわけではありません。

 

日本人は古来より神聖視していました。

 

桜の「サ」田の神様

「クラ」神様の座る場所

示しているという説があるそうです。

 

「サクラ」

神様が山から下りてきたときに、

いったん留まる

「依代(よりしろ)」

とされていたのです。

 

桜が咲くことは

「神様が山から下りてこられた証」

と考えられ、

みなで集まりお酒や食べ物を

お供えしていたといわれています。

 

またというものがなかった当時、

人々は開花状況

田植えの時期を決めていました。

 

桜が美しく咲くと、

田植えに適切な時期がやってきたと

判断していたのです。

 

里の人々にとって、

桜は鑑賞する対象というより、

神様の宿る神聖な存在で、

お祭りする対象だったといえるでしょう。

 

 

 

遣唐使の廃止により桜のブームがやってくる

 

平安京に都が移って100年経った894年

菅原道真遣唐使に任命されましたが、

唐の国の衰えが激しいこと、

唐への航海が大変危険であることを理由に

宇多天皇に再検討を願い出ました。

 

国内でも災害が相次いでいたこともあり、

道真の願いは聞き入れられて、

遣唐使は一時的に停止、

その後も再開されませんでした。

 

こうして遣唐使廃止されたことにより、

「国風文化」と呼ばれる

日本独自の文化が発展していきました。

 

この時期を境に、

中国に由来を持つ梅よりも、

日本に在来していた

桜の人気が高まっていったと

考えられています。

 

『古今和歌集』には

を詠んだ歌が70首

を詠んだ歌は18首に留まりました。

 

このころから和歌において

「花」といえばを指すようになったのです。

 

遡って812年

桜の花を好んだ嵯峨天皇

記録に残る日本最初の花見の宴を催しました。

 

831年からは

花見が天皇主催の定例行事となり

『源氏物語』にもその様子が描かれています。

 

奈良時代には梅だった花見の花は、

平安時代にはすっかり桜へと

世代交代したのでした。

 

 

鎌倉時代には武士階級にも花見が広まる

 

鎌倉時代から室町時代になると、

貴族の風習としての花見が

武士階級一般階級にも

広まりはじめました。

 

さらに安土桃山時代には、

花見は盛大な催しとなっていきました。

 

豊臣秀吉は1594年、

1000本の桜を

大阪から吉野に運んで植え、

5000人を招いて

5日間にわたって

「吉野の花見」を開きました。

 

この一大イベントから

花見が宴会行事として

定着していったと考えられます。

 

京都の寺社や山々に

桜が植えられはじめたのも

この頃だそうです。

 

 

江戸時代には庶民も花見を楽しむようになった

徳川幕府3代将軍家光

徳川家の菩提寺となる

寛永寺に多くの吉野の桜を植えました。

 

これが江戸に吉野の桜がきた

最初だといわれています。

 

8代将軍吉宗

庶民にも桜を楽しむ場所を作ろうと1720年、

浅草の隅田川堤飛鳥山

大規模な桜の植樹を行いました。

 

吉宗は農村部にも桜の植樹を促進し、

桜の名所を作ることで

経済効果を上げようとしました。

 

これらの政策により、

花見は庶民も楽しめる

春の行事となったのです。

 

江戸落語の「長屋の花見」では

その楽しげな様子を窺い知ることができます。

 

 

ソメイヨシノの誕生

江戸時代末期、

染井村(いまの豊島区駒込)の植木屋が

「大島桜」「江戸彼岸桜」を交配して

新種の桜「染井吉野」をつくりました。

 

継ぎ木で増え、

成長スピードが早い染井吉野は、

瞬く間に日本全国に

植えられるようになりました。

 

現代における

花見の桜の80%ソメイヨシノです。

 

ただ、ソメイヨシノは寿命が短く

およそ60年といわれています。

 

全国のソメイヨシノは

第二次世界大戦前に

植えられたものが多く、

すでに寿命を迎えているものが

少なくありません。

 

そのため、

植え替えが急務となっています。

 

 

私ども家系図ラボの事務所がある

東京都国立市は

桜の名所として有名です。

 

大学通りの桜はほとんどがソメイヨシノ

やはり古木となっており、

市民ボランティアによる

「桜守り」の活動によって

保護や植え替えが行われています。

 

お近くの方がいらっしゃいましたら、

今年の桜の季節にはぜひお立ち寄りください。

 

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