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2022.09.07
鎌倉幕府の執権 

大河ドラマで注目される北条家の家系図  

 

 

2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が

初回視聴率17.3%で幕を開け、現在も盛り上がっていますね。

 

大河ドラマの脚本は3回めになる

三谷幸喜と主演の小栗旬ほか大泉洋、

小池栄子ら豪華な俳優陣で、

これからさらにどこまで人気を集めていくでしょうか。

 

三谷作品らしいユーモアのある人物設定と

現代的な台詞回し、

それらに反して歴史に忠実なストーリーテリングで、

今後の展開が楽しみです。

 

本ブログとして気になるのは、

ドラマの主軸である北条家の家系図。

 

主役の北条義時には

時政という父、兄・宗時と姉・政子、妹・実衣がいる、

というのは初回で知れましたが、

ここから北条家の家系はどのようにつながっていくのか。

 

史実としての家系はどうなのか。

調べてみました。

 

 

伊豆の豪族北条家、桓武天皇がルーツと自称

 

北条家は義時の父時政の代から、

鎌倉幕府の「執権」として政治を司ってきました。

 

歴史の表舞台に登場するのはこの時政で、

代々伊豆を拠点とする地方豪族でした。

 

祖先は桓武平氏と自称していたようです。

 

平家のルーツを持ちながら、

平家に反旗を翻した源頼朝を擁して、

鎌倉幕府の礎を築いたわけですから、

歴史とは興味深いものですね。

 

家系図は時政の祖父時家から高時までの直系が10代。

執権の代でいうと、16代の守時までで、北条家は失脚します。

 

 

源頼朝の挙兵からの北条家躍進

 

平清盛により伊豆に流刑されていた源頼朝

北条時政の娘政子と婚姻します。

 

治承4(1180)年、

後白河法皇の皇子以仁王

平家追討を命ずる令旨(りょうじ*)を諸国の源氏に送り、

頼朝は時を待ちますが

平家方の攻撃による自身の危機を悟って挙兵。

令旨(りょうじ):皇后や皇太子や皇族の命令を伝える文書。

 

時政ら北条氏がこれに従います。

 

養和元(1181)年には政子頼朝の嫡男(ちゃくなん)頼家を出産、

北条家と源氏の血縁が繋がりました。

 

その後各地の武家豪族が頼朝方につき、

関東から次第に西へと勢力を広げていきます。

 

源氏方の木曾義仲との戦いが起こりましたが、

頼朝の異母弟である源義経の活躍もあって義仲を倒し、

その後ついに平家を滅ぼしました。

 

頼朝は鎌倉幕府を開府、

初代征夷大将軍職に。

 

建久3(1192)年のことです。

「イイクニ造ろう鎌倉幕府」の年号は

忘れたくても忘れられませんね。

 

 

「執権職」に就いて鎌倉幕府の実験を握った北条氏

 

 

北条時政はここで初代の「執権職」に就きます。

「執権」とは「将軍を補佐し、政務を司る役職」というものですが、

源頼朝の血筋は三代実朝ではかなく潰えています。

 

二代目源頼家実朝も政子の実子でした。

 

しかし頼家実朝に取って代わられ命を落とし、

その実朝もまた頼家の子公暁に討たれるという、

まさに血で血を洗うありさま。

 

黒幕だったのかも知れない北条氏は、

その後藤原家や皇族を将軍に据えては解任し、

執権職のまま鎌倉幕府の実権を握りつづけます。

 

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、

北条家繁栄の基を築いた義時

ダークな一面が描かれることになるようです。

 

実子を二人まで失っても

実家北条氏の権勢をよしとした政子の生きかたにも

興味は尽きません。

 

 

朝敵となった義時「承久の乱」

 

 

北条氏の力が強まることを面白く思わない後鳥羽上皇。

 

承久3(1221)年に倒幕の兵を挙げ、

義時追討の宣旨を全国に向けて発布します。

 

鎌倉幕府内は騒然となりますが

「尼将軍」政子の涙ながらの大演説により団結。

 

義時の息子泰時朝時

時房が北陸経由で進軍し、

19万の兵を集めたといいます。

 

一月を待たずして幕府軍は京都を制圧。

 

後鳥羽上皇順徳上皇土御門上皇はそれぞれ

壱岐島、佐渡島、土佐国に配流され、

後堀河天皇が即位します。

 

後鳥羽上皇の莫大な荘園は没収されて幕府の支配下へ、

朝廷を監視するための

六波羅探題(ろくはらたんだい*)を京都に設置、

京方武士や貴族の所領3万か所もすべて幕府が取り上げ、

恩賞として幕府方に与えられました。

 

*六波羅探題(ろくはらたんだい):鎌倉幕府が京都に設けた出先機関

 

この戦後処理により、

鎌倉幕府執権北条義時の絶対的権力が確立したのです。

 

朝廷と幕府の権力が逆転し、

これ以後武家社会が続くことになるという、

日本史の上での大きなできごとでした。

 

『鎌倉殿の13人』のクライマックスもこのあたりでしょうか。

 

 

その後の北条氏 16代の執権職

 

 

「承久の乱」幕府軍の総大将であった北条泰時は、

六波羅探題北方に任ぜられ京都にありましたが、

義時の急死により鎌倉に戻り貞応3(1224)年に三代執権に就任。

 

「承久の乱」後の紛争の頻発を見て

武士社会を統一するための法典が必要と考え

「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を制定しました。

 

四代執権は泰時の孫経時で、

訴訟制度の改革を行いましたが23歳で夭折、

時頼が五代執権に就任します。

 

引付衆設置による裁判制度の改革、

民衆の保護、

鎌倉の整備など善政を行ない、

名執権として知られています。

 

 

時頼が病を得て、

嫡男時宗に執権職を譲るまでの中継ぎとして六代執権に就いたのが

北条重時の次男長時

 

時宗への中継ぎはもう一人、

60歳の北条政村も勤めました。

 

 

その七代政村から18歳で執権を受け継いだ八代時宗

 

二度の蒙古襲来を撃退し北条家先制を確立させましたが、

財政難のなかさらなる蒙古襲来に備えなければならないなど

国内外の難題も生じました。

 

 

時宗の嫡男貞時九代執権の時代には

幕府内部の権力争いが起こります。

 

十代師時を経て

十一代宗宣義時の弟時房の曾孫にあたる傍系でした。

 

十二代煕時は七代政村の曾孫、

十三代基時も傍系で、

ここまでくると北条氏の弱体化が明らかになってきます。

 

 

基時高時に執権を譲り出家しますが、

元弘3/正慶2(1333)年、

新田義貞らが鎌倉に攻め入り、基時は自害。

 

このとき、

十四代執権だった高時も十五代執権だった貞顕も、

新田軍に追われて北条家菩提寺で自害しています。

 

十六代、最後の執権となった守時は、

新田義貞を迎え討つ先鋒隊として出撃、

激戦の後洲崎で自刃。

 

十三代から十六代までの執権が

すべて新田軍に討たれることになってしまいました。

 

 

源頼朝を立てて平家を倒し、

その源氏を根絶やしにした北条氏は、

鎌倉幕府の実権を掌握し、

武家社会の基盤を築きましたが、

自らもまた武家によって滅ぼされました。

 

しかし、日本史の大転換点をつくった一族として

これからも歴史愛好家の注目を集めていくことでしょう。

 

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