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2022.10.21
お茶の歴史 中国から日本に伝わった重要な文化の一つ

お茶の歴史  中国から日本に伝わった重要な文化の一つ

 

暑い日には冷茶、寒い日には熱いほうじ茶。

 

わたしたちの生活とは切っても切り離せないお茶ですね。

 

茶道の「一服」として高められた

精神的な鎮静・リラックス作用ばかりか、

近年ではお茶の成分カテキン抗菌作用や、

烏龍茶脂肪分解作用など

健康効果も手軽なペットボトルで期待できるようになりました。

 

今回のブログではそんなお茶の歴史をひもといてみましょう。

 

 

 

お茶の発祥はやはり中国

 

中国の歴史にお茶が登場するのは紀元前2700年ごろ。

 

農業と漢方の祖「神農」

野草とお茶の葉を食べていたという伝説があるそうです。

 

神農とはその名の通り、

医業と農業を司る神で、

頭と手足以外は透明で内臓が外からはっきり見えたとか。

 

薬草と毒草を見極めるために、

ありとあらゆる植物をなめて、自分の体で確かめたといいます。

 

760年ころ、

唐の時代陸羽(りくう)が記した『茶経』は、

世界でもっとも古いお茶の本とされていますが、

お茶が南方で始まったことを伺わせる記述があります。

陸 羽(りくう)、733年 – 804年):中国の唐代の文筆家

 

このころのお茶は

蒸した茶葉を搗き固めて乾燥させた

「餅茶(へいちゃ)」が主流でした。

 

宋の時代になると、

お茶は貴族から役人や文人など富裕な市民にも広まりました。

 

「闘茶」という、

茶のよしあしを鑑定し

茶器の良否を競うような遊びもあったそうです。

 

「餅茶(へいちゃ)」の製法は

複雑化し「片茶(へんちゃ)、団茶」

と呼ばれるようになりました。

 

 

清の時代に完成する中国のお茶文化

 

 

明の時代になると、

喫茶の習慣は

貴族と富裕な市民層から

一般の市民へと普及していきます。

 

初代皇帝、洪武帝(こうぶてい)

お茶本来のおいしさを損なうものとして

団茶禁止令を出し、

この後「散茶」が本格的に生産されるようになりました。

*洪武帝:中国,明の建国者。(在位1368年―1398年)。

散茶:茶の葉をひいて粉にしたもの。 ひき茶。 抹茶。

 

残った団茶を飲む方法として、

ジャスミンなどの香りをつけた「花茶」が登場したのもこの時代です。

 

明代末期になると、

福建省の武夷茶(ぶいがんちゃ)が上流階級に珍重され、

商人が大金をもって求めました。

*武夷岩茶(ぶいがんちゃ)

:中華人民共和国福建省北部の武夷山市で

生産される青茶(烏龍茶)・他の種類。

茶樹が山肌の風化した岩に生育しているためにこの名がある。

中国十大銘茶のひとつ。

 

の時代、

中国の茶葉や茶器はほぼ完成し、

茶文化は最盛期を迎えます。

 

福建省では「青茶」と呼ばれる烏龍茶が開発され

「花茶」とともに愛飲されるようになりました。

 

また青茶ならではの素晴らしい香りを追求する過程で

「工夫茶(かんふーちゃ)」という方法が編み出されました。

工夫茶:烏龍茶鉄観音茶をより美味しく頂くために

茶壷チャイフ-」や「茶杯チャイペ-」といった専用の茶器を使って楽しむものです。

 

清が崩壊し、

中国は列国の侵略を受けますが、

茶壷の製作や茶葉の栽培はさらに発展しました。

 

中華人民共和国の建国(1951年)後、

中国茶は順調に発展を続けていたものの、

毛沢東文化大革命(1966〜76年)により、

お茶贅沢の象徴として弾圧され、

栽培は制限されました。

 

代わって台湾香港で茶芸とお茶の栽培がより発展し、

現在では台湾茶が世界的に有名になっています。

 

 

日本に入ってきたのは奈良時代

 

日本にお茶ともたらしたのは、

奈良時代遣唐使留学僧とされています。

 

歴史書に初めてお茶が記述されたのは、

平安初期(815年)『日本後期』

 

嵯峨天皇大僧都(だいそうず)永忠

近江(現在の大津市)梵釈寺(ボンシャクジ)

お茶を煎じて奉った、

とあるそうです。

 

当時のお茶は大変貴重で、

天皇や貴族階級だけが口にできるものでした。

 

 

深酒する源実朝に献上された『喫茶養生記』

 

 

鎌倉時代、

臨済宗の開祖である栄西(ようさい)

宋の禅院での学びをもとに『喫茶養生記』を書き、

お茶の効能を説きました。

 

『吾妻鏡』には栄西は1214年、

深酒をする癖のあった源実朝

お茶に添えて『喫茶養生記』を献上したとあります。

 

 

また明恵上人(みょうえしょうにん)

京都栂尾(とがのお)高山寺茶の木を植え、

を奨励しました。

明恵上人(みょうえしょうにん)

:鎌倉時代前期の華厳宗の僧。

京都栂尾(きょうととがのお)

:栂尾山高山寺の周辺を指す地名。

 

ここが日本最古の茶園とされています。

 

武士階級にも茶が浸透、

「闘茶」の遊びが日本でも行われるようになりました。

 

鎌倉末期から南北朝時代にかけて、

伊勢、伊賀、駿河、武蔵でもお茶が栽培されはじめました。

 

15世紀後半、

村田珠光(じゅこう)「侘び茶」を創出し、

これを受け継いだ

武野紹鴎(たけのじょうおう)千利休らによって

「茶の湯」が完成、

豪商武士たちに広まっていきます。

*侘び茶:わび・さびの理念に徹した茶の湯
闘茶一式の茶の湯を改革し,禅の思想をとり入れた。

 

江戸時代に入り、

茶の湯は武家社会に欠かせない儀礼の一つになりましたが、

庶民は抹茶ではなく煮出したお茶を飲んでいました。

 

1738年宇治田原郷永谷宗円煎茶の製法を編み出し、

18世紀後半以降、日本茶の主流となっていきます。

 

お茶は独自の流通機構で商われ、

幕末の開港により、生糸と並ぶ重要な輸出品となり、

世界に日本のお茶が広まっていきました。

 

 

明治以降、輸出品の雄だったお茶が日本人の生活に根付くまで

 

明治維新後も、

政府の援助によりお茶の輸出量はアメリカを中心に増加。

 

明治初期には静岡県牧之原台地などで

士族により集団茶園が形成されましたが、

次第に離散、士族に代わって農家が茶園を継承していきます。

 

集団茶園は、栽培のみならず、

流通の発展、茶商、仲買人、茶問屋などの形成、

各種機械の発明など関連産業の成立に影響を与えました。

 

明治中期以降、

欧米ではインドやセイロンの紅茶が好まれるようになったため、

日本茶の輸出は次第に停滞していきます。

 

結果として、国内消費が増え、

お茶は国内向けの嗜好飲料となり、生活に根付きました。

それが大正末期から昭和初期といわれています。

 

 

急須から缶へ、ペットボトルへ

 

いま「お茶を買って帰ろう」といえば

「コンビニエンスストアに寄ってペットボトルの緑茶飲料を買おう」

という意味だということを疑う人はいません。

 

家庭のちゃぶ台の上から茶筒と急須が消えて久しい一方で、

お茶の生産量はこの30年間8万トンから10万トンの間で安定しています。

 

免疫力も高めるといわれてるお茶。

今こそ飲んで、健康を保ちたいものです。

免疫力について気になる方はこちらのブログもぜひご覧ください。

 

わたしたち日本人はこれからもおそらく、

お茶を愛し続けることでしょう。

 

 

 

 

 

 

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